九份と十分、そして故宮博物院――台湾で見た斜面、線路、手仕事
台湾の旅には、少し不思議な密度がある。
街と山が近い。
古いものと新しいものが近い。
観光地と生活の場所が、あまりはっきり分かれていない。
今回訪れたのは、十分、九份、そして故宮博物院。
ランタンを空に上げる街。
山の斜面に広がる街。
そして、途方もない手仕事が静かに並ぶ博物館。
まったく違う場所のようでいて、どこか一本の線でつながっているようにも感じた。
それは、台湾という土地にある「積み重なり」のようなものかもしれない。
人が暮らす。
祈る。
つくる。
運ぶ。
残す。
その痕跡が、街にも、線路にも、展示ケースの中にもあった。
十分でランタンを上げる
十分では、ランタン上げを体験した。
観光としては有名だ。
願いごとを書いたランタンに火を入れ、空へ放つ。
言葉にすればそれだけなのだが、実際にやってみると、思っていたよりもずっと印象に残る。
まず、ランタンが大きい。
写真で見るよりも大きい。
紙でできた四角い袋のようなものが、人の背丈ほどの存在感を持って目の前に立つ。
その面に願いごとを書く。
家族のこと。
健康のこと。
仕事のこと。
旅のこと。
何を書くか少し迷う。
願いごとというのは、いざ書けと言われると、案外難しい。
そして、そのランタンを線路の上で上げる。
これが面白い。
十分の街では、線路がただの交通インフラではなく、街の中心にある舞台のようになっている。
店のすぐ前に線路があり、人が歩き、写真を撮り、ランタンを持つ。
そこへ、時々電車が通る。
電車が来ると、人は線路から離れる。
通り過ぎる。
そしてまた線路に戻る。
日本の感覚からすると、少し不思議な距離感だ。
線路というものは、普通は立ち入ってはいけない場所である。
そこに人が立ち、願いを空に上げている。
電車の通行の隙間を使って、線路が一瞬だけ儀式の場所になる。
この切り替わりが面白かった。
構造設計者としては、つい余計なことも考える。
線路脇の建物の近さ。
人の密度。
仮設的な看板。
雨除けの庇。
観光地としての安全管理。
しかしランタンに火が入り、ふわりと浮き上がる瞬間には、そういう職業病も少しだけ薄れる。
紙の中に熱がたまり、空気が膨らみ、ランタンが静かに持ち上がる。
人の願いが、物理現象によって空へ上がっていく。
そう考えると、少しおかしい。
祈りにも、浮力が必要なのだ。
九份の斜面に広がる街
九份は山の斜面に広がる街だった。
細い道。
階段。
茶屋。
赤い提灯。
湿った石段。
人の流れ。
遠くに見える海。
観光地としての九份は、よく知られている。
しかし現地で最初に思ったのは、少し違うことだった。
「建設、大変だっただろうな」
完全に職業病である。
山の斜面に街をつくるというのは、簡単なことではない。
平らな土地に建てるのとはわけが違う。
敷地が限られる。
搬入も難しい。
基礎も難しい。
雨水の処理も難しい。
建物同士の距離も近い。
背後には山があり、前には急な斜面がある。
そこに人が住み、商売をし、観光客が押し寄せる。
街全体が、斜面にしがみついているように見える。
階段を上りながら、つい擁壁を見てしまう。
この石積みはいつのものだろう。
この建物の基礎はどうなっているのだろう。
雨が強い時、水はどこを流れるのだろう。
山の街には、構造設計者を黙らせない何かがある。
ただ、それだけではない。
九份には、斜面だからこそ生まれる景色がある。
少し上ると、視界が抜ける。
振り返ると、屋根が重なって見える。
さらにその向こうに海がある。
平地の街では得られない奥行きがある。
建築は、土地の条件によって苦労する。
けれど、その苦労がそのまま魅力になることもある。
九份はまさにそういう街だった。
茶屋でお茶を飲む
九份では、有名な茶屋でお茶をいただいた。
観光地らしいにぎわいの中で、茶屋に入ると少し時間の流れが変わる。
湯を沸かす。
茶葉を入れる。
器を温める。
香りを確かめる。
一つひとつの所作が、急がない。
旅先ではつい歩き回ってしまう。
次はどこへ行くか。
何を食べるか。
どこで写真を撮るか。
そうやって予定を追いかける。
しかしお茶の時間だけは、少し違った。
山の斜面に建つ茶屋の中で、外のざわめきを感じながら、湯気を見る。
窓の向こうには、九份の街がある。
建物が斜面に折り重なり、提灯が揺れ、人が石段を行き来している。
その景色を見ながら飲むお茶は、味だけではない。
場所ごと飲んでいるような感覚がある。
建築とは、こういう時間をつくるものなのだと思う。
柱や梁や壁だけではない。
窓の位置。
床の高さ。
席から見える景色。
外の音の入り方。
そうしたものが合わさって、その場所の記憶になる。
九份の茶屋は、ただお茶を飲む場所ではなかった。
山の街を少し高いところから眺めるための装置でもあった。
故宮博物院へ
故宮博物院では、時間の密度が一気に変わった。
九份や十分が街の記憶だとすれば、故宮博物院は手仕事の記憶である。
展示ケースの中に並ぶものは、どれも人の手でつくられている。
それが当たり前のようで、実は当たり前ではない。
石を削る。
玉を磨く。
象牙を彫る。
器に絵を描く。
金属を打つ。
布を織る。
今のような機械も、コンピューターも、3Dプリンターもない時代に、人はなぜここまで細かいものをつくろうとしたのか。
見ていると、少し気が遠くなる。
特に心を奪われたのは、翠玉白菜と象牙の彫り物だった。
翠玉白菜は、名前の通り白菜である。
しかし、ただの白菜ではない。
石でできている。
それなのに、葉の柔らかさがある。
白から緑へ移る色の変化が、そのまま白菜の芯と葉になっている。
素材の色を無理に隠すのではなく、むしろ素材の個性を読み取り、それを作品にしている。
これは建築にも通じる。
材料の性質を無視して形を押しつけるのではなく、材料が持っているものをどう生かすか。
木には木の良さがある。
鉄には鉄の良さがある。
コンクリートにはコンクリートの良さがある。
ガラスにはガラスの良さがある。
翠玉白菜を見ていると、素材を読むということの大切さを思う。
球の中に球を彫る
もう一つ、忘れがたいのが象牙の彫り物だった。
球の中に球がある。
さらにその中に球がある。
何層にも重なった球が、互いに独立しているように見える。
どうやって彫ったのか、見ているだけでは理解できない。
外側から少しずつ彫り進めたのだろう。
理屈としてはそうなのかもしれない。
しかし、理屈がわかっても、手が追いつかない。
一つ間違えれば終わりである。
割れる。
欠ける。
線がずれる。
内部の球を傷つける。
それでも彫る。
しかも美しく彫る。
これはもう技術というより、執念に近い。
構造設計でも、似たようなことがある。
外からは見えない部分が大切になる。
接合部。
補強筋。
力の逃がし方。
施工順序。
完成した時には隠れてしまう部分に、仕事の質が出る。
象牙の球を見ながら、そんなことを考えた。
表に見えている美しさの奥に、見えない手順がある。
見えない苦労がある。
見えない精度がある。
それが作品の強さになっている。
台湾で見た三つのスケール
十分、九份、故宮博物院。
この三つは、まったく違う場所だった。
十分では、線路の上でランタンを上げた。
人の願いが、空へ上がっていく。
九份では、山の斜面に広がる街を歩いた。
建設の苦労と、斜面だからこその美しさを見た。
故宮博物院では、手のひらに収まるような小さな作品に、途方もない時間と技術を見た。
大きさが違う。
街。
建築。
工芸。
けれど、どれも人がつくったものだった。
線路を街の舞台に変える知恵。
斜面に街を築く力。
小さな素材の中に宇宙のような精密さを彫り込む手。
台湾の旅では、そのスケールの違いが面白かった。
大きなものだけがすごいわけではない。
小さなものだけが繊細なわけでもない。
斜面の街にも繊細さがあり、象牙の球にも構造のような強さがある。
まとめ
九份と十分、そして故宮博物院を巡る旅は、台湾のいくつもの表情を見る旅だった。
十分では、電車が通る線路の隙間でランタンを上げた。
線路が交通の場から祈りの場へ変わる瞬間が面白かった。
九份では、山の斜面に広がる街を歩いた。
観光地としての華やかさの奥に、斜面に建物をつくる大変さが見えた。
茶屋で飲んだお茶は、味だけでなく、場所の記憶として残った。
故宮博物院では、翠玉白菜と象牙の彫り物に心を奪われた。
素材を読み、手を尽くし、見えないところまで作り込む技術に圧倒された。
旅をしていると、建築のことを考えずにはいられない。
斜面を見れば基礎を思い、線路を見れば街との距離を思い、展示品を見れば素材と技術を思う。
それは少し面倒な職業病かもしれない。
けれど、そのおかげで旅の記憶は少し深くなる。
台湾で見たのは、ただの観光地ではなかった。
人が土地と向き合い、素材と向き合い、時間と向き合ってきた跡だった。
ランタンが空へ上がる。
山の街に提灯が灯る。
展示ケースの中で、玉と象牙が静かに光る。
そのどれもが、人の手によってつくられたものだった。
そしてそのことが、妙に心に残った。
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